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逆にぼくが田舎とか地方とかいうとき意味しているのは、怪人二十面相が住もうとしても隣近所の詮索がうるさくてすぐ逃げ出してしまうか、もっと惨めなことにすぐ警察に突き出されてしまうような場所のことだもう少し「論理的」に言うと、こういうことになる。
街には匿名性、平等性、そして自己責任の原則がなければならない。
まず、怪人二十面相のように悪いことばかり企んでいる人間にも、パレて足がつかない限り平和に暮らせるアジトが持てるような匿名性がなければならない。
そして、運悪く捕まった時には、「社会が悪い」とか「教育が悪かった」とか往生際の悪いことを言わないで、自己責任の原則にもとづいて罪を償わなければならない。
また、そうなったとしても、怪人二十面相の家族たちが「あいつは悪いやつの家族だ」ということで村八分にされるようなことはあってはならない。
たとえ極悪人の家族でも、本人が罪を犯していなければ、他のだれかれと区別なくふつうに生きていける場所でなければならない(平等性の原則)。
つまり、一軒ごとに「ここは、どこそこのだれのお屋敷」というような豪邸が並んでいるところは、田舎と同じ材くらい素っ頓狂な人聞を排除する閉鎖的なムラ社会になり制がちなのだ。
そんなところは、有名人の表札を見つけるの時が趣味とか、豪邸を眺めるのが楽しいとかいう少数派は別として、ふつうの人間にとって歩くことの楽しい場所であるわけがない。
しかし、それはこのかつて東京でいちばんの高級住宅地だったところが、街として成長しはじめるのが遅れる理由にはなるが、いまだに忘れられた街としてくすぶっている理由にはならない。
明治中期に生まれた渋谷、新宿あたりがちょうど七年後に当たる一九七年前後に若返りの時期を迎えたのに対して、大正の副都心は首都高・渋谷線で渋谷と直結した六本木が七0年代にすでに若返り期を終えていた以外は、だいたい一九九0年代ごろに注目を集めるような変化が見られた。
その中で、本郷だけは鳴かず飛ばず状態が続いている。
この事実も、昔お屋敷町だったことがもたらした地域的後進性というだけでは説明できない。
結局のところ、「大正時代の副都心」と呼ばれた本郷、神楽坂、四谷、六本木、麻布十番の中から本郷が脱落したことも、千駄木、春日、小日向といった高級住宅地がついにまともな街として育たないまま人口の激減に見舞われていることも、最大の理由は東京都の都市計画、土地計画にあった。
江戸時代から現在に至る公娼・私娼制度の変遷とそこにつけ込んで、まっとうな方法ではとうてい受け入れられるはずのなかった用途地域制度を導入した東京都の都市計画官僚たちのやり口が、街を殺してしまったのだ。
日本ではいったん建った住宅や零細店舗は、住み手が建て替えない限り約七0年間は放っておかれる。
そしていったん構えた家は「売り家と唐様で書く三代目」という川柳にもあるように、たいていの場合二代固まではもっ。
だから、既成市街地はほとんど骨格を変えずに周辺地域にはみ出していく。
本格的な再開発が始まるまでには、住民たちの世代が二国交替する必要がある。
それに加えて、幕末以降の日本には、なぜかほほ七年ごとに、天変地異と社会経済的大変動の相乗効果で、約一0年間街の形成が「お休み」をとる傾向があった。
まず、安政の大地震(一八五五年)から幕末維新の激動(一八六01七年)で、街の形成は一八六0年代に一回休みを決め込む。
次は、関東大震災(一九二三年)から三0年代大不況で、一九三0年代の衡の形成が停止する。
敗戦直後のすさまじい欠乏の中でも、一九四0年代は休みではなかった。
そして、もう関東大震災のような大きな被害を及ぼす地震はなさそうだと日本人が油断し始めたころ、一九九五年の阪神・淡路大震災が発生した。
ちょうどバブル崩壊後の大不況と重なってしまったので、九0年代が一回休みの一年になってもよさそうなものだったが、今度は主として大企業が手がける大プロジェクトの「デシジョンメーキング(意思決定この遅さのために、むしろ一九九四年が都心大規模ピル供給のピークとなるかたちで、やはりお休みの一0年間は規則正しく前回の七年先、二000年代最初の一0年間まで繰り延べられたようだ。
二三年の大量供給があるじゃないかという人がいるかもしれないが、八01九0年代に確立された方向性を大きく変えるようなプロジェクトはひとつもない。
あだから文明開化期の先進地域だった上野・浅草が見直さ倒れるまでには、二次世界大戦さなかの一九四0年代までも待たなければならなかった。
しかし、一九四0年代に起き働た上野・浅草に対する見直し気運は、結局本格的な再開発には結びつかないまま、二次大戦直後の混乱の中で立ち消えになってしまった。
その理由の一端は、あとで詳しく見るように都心の西と東では交通網の利便性が段違いに西に有利にできていたことだ。
しかし、もう一つの理由は、戦後憲法の掲げた大原則の一つ「政教分離」が、日本の不思議な政治風土の中では、はるか昔から公闇用地として神社仏閣の広大な敷地の中から公共のために供出されてきた土地を、宗教団体が取り戻す論理に使われてしまったことだった。
局公園緑地部、「社寺境内地公園の消滅」の項参照)じつは、維新直後からどうやって欧米列強に対して日本も立派な「先進国」であることをアピールするかばかり考えていた明治政府は、財政的負担ゼロで都市公園を整備する妙案を思いついた。
都心のすぐそばの便利な場所に広大な遊休地を持っているお寺さんの土地を借りて、公園に指定する。
ただ、賃借料は公園内での営業を許可した飲食店などの収益から支払うというものだ。
いまはやりのPF(プライベート・ファイナンス・イニシアティプ)そのものと言っていい。
ふつうは国や自治体がやるような仕事を民間企業が採算本位で運営するのにまかせて、公的部門の財政的負担を軽減するとともに、消費者にとっても金を払ってでも使う気になれるような魅力的な施設にしたわけだ。
川添登の「東京の原風景」は、園芸産業という切り口から、徳川政権下の日本の首都、江戸がいかに文化的に進んだ街だったかを教えてくれる名著だが、なぜ現代日本の都市公闘が貧乏ったらしいのかつて点については、完全に間違っている。
川添は「日本の都市公園が貧しいのは、当然金をかけて整備すべき国が民間企業による採算本位の開発にまかせてしまったからだ」と主張している。
まさに、明治政府は、江戸幕府が文化一般に対してもっていた態度を受けつぎ、それを花と緑の文化にもおよぼしたのである。
いや、そればかりではない。
こともあろうに、江戸時代の社寺が、その境内を、民家や興行師に貸して、てら銭をまきあげるということを真似て、都市公園の大半を民家に貸して地代をとりあげることすら、公然と行った。
それだけではない。
「日本には歌舞伎のような混雑な大衆芸能しか生まれなかったのに対して、欧米ではオペラとかバレエのような高尚な芸術が生まれ育った。
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